志喜屋日記

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寺社仏閣

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鐘楼(重文)−金堂の左手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘とともに日本三名鐘に数えられている。
閼伽井屋(あかいや、重文)−金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。

梵鐘(弁慶の引き摺り鐘)−金堂裏の霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代にさかのぼる日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。

国宝指定名称は「絹本着色不動明王像」。高野山明王院の「赤不動」、青蓮院の「青不動」とともに日本三不動の一つに数えられる、古来著名な画像である。「金色(こんじき)不動明王」とも呼ばれるこの像は、承和5年(838年)、比叡山で籠山修行中の円珍(当時25歳)の前に忽然と現われ、「自分は金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝(円珍)を守護するために現われた」と告げたとされる。その後、この不動明王は、円珍が唐への航海の途上、海賊に襲われそうになった時に出現するなど、円珍の生涯の危機に際して現れたとされ、円珍の守護神的な性格をもっていたと思われる。

西国十二・十三・十四番は有料道路の京滋バイパスの石山寺ICで下りると、直ぐです。
十二番・岩間寺と十三番・石山寺は駐車場も直ぐに見付かりましたが、この十四番の三井寺は迷った記憶があります・・・。
 まぁ私の場合は下調べをせず、カーナビだけを頼りに行くのがダメなんでしょうが・・・。

 皆様が行かれる折にはせめて駐車場の場所や宗派・本尊等々の確認をされてから行く事をお薦め致します。
三井寺の敷地:伽藍配置は凄く広いですよ。

私が行った日は雨だったので、今度は天気の良い日に行きたいですね。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の姪にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主(てんだいざす)義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山をめぐって厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深いつながりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とするとともに、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗とみなしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)をはじめ、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

●長等山 三井寺(園城寺)

●天台寺門宗総本山

●如意輪観世音菩薩(観音堂)


園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。

三井寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上たびたびあった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時にさかのぼる遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

自分の趣味の押し付け?

もう少しで私は成満致します。
っても、朱印も軸も持参しないもんで。
二回目も検討中。

その時は朱印帳と軸を持参します。

さて、では十八本山の紹介を致します。


●五岳山 屏風浦 善通寺
 香川県善通寺市善通寺町
 本尊:薬師如来
 『同行二人』

●上野山 須磨寺
 神戸市須磨区須磨寺町4-6-8
 本尊:聖観世音菩薩
 『除安遍明』

●蓬莱山 清荒神 清澄寺
 宝塚市米谷字清シ1
 本尊:大日如来
 『帰依三宝』

●紫雲山 中山寺
 宝塚市中山寺2-11-1
 本尊:二臂十一面観世音菩薩
 『観音力疾走』

●旧嵯峨御所 大覚寺
 京都市右京区嵯峨大沢町
 本尊:五大明王
 『一字一文遍法界』

●旧御室御所 大内山 仁和寺
 京都市右京区御室大内
 本尊:阿弥陀三尊
 『一味和合』

●五百仏山 智積院
 京都市東山区東山七条
 本尊:大日如来
 『櫂一心利刀顕教也』
 『揮三密金剛密蔵也』

●東山 泉涌寺
 京都市東山区泉涌寺山内町27
 本尊:釈迦・阿弥陀・弥勒
 『生生法城』

●八幡山金光明四天王秘密伝法院 教王護国寺(東寺)
 京都市南区九条町1
 本尊:薬師如来
 『五蘊皆空』

●亀甲山 勧修寺
 京都市東山区勧修寺仁王堂町27-6
 本尊:千手観世音菩薩
 『三密加持』

●牛皮山 隨心院
 京都市山科区小野御霊町35
 本尊:聖如意輪観世音菩薩
 『観音妙智力』

●深雪山 醍醐寺
 京都市伏見区醍醐東大路町
 本尊:薬師如来
 『実修実証』

●生駒聖天 宝山寺
 奈良県生駒市門前町1-1
 本尊:大聖歓喜双身尊天
 『加持感応』

●信貴山 朝護孫子寺
 奈良県生駒郡平群町信貴山
 本尊:毘沙門天王
 『虚往実帰』

●秋篠山 西大寺
 奈良市西大寺芝町1-1
 本尊:釈迦如来
 『入我々入』

●豊山 長谷寺
 奈良県桜井市初瀬町731-1
 本尊:十一面観世音菩薩
 『福聚海無量』

●一乗山 大伝法院 根来寺
 和歌山県岩出市根来
 本尊:金剛界大日如来・金剛菩薩・尊勝仏頂
 『迷中是非 是非倶非』

●高野山 金剛峯寺
 和歌山県伊都郡高野町高野山
 本尊:大日如来
 御宝号:南無大師遍照金剛
 『即身成仏』




詳しくは下記にお問い合わせ下さい。
専用の朱印帳・掛け軸・資料本等の取り扱いがあると思います。

【真言宗各派総大本山会】
京都市東山区東大路七条下ル東瓦町964
総本山 智積院内
TEL:075-561-4819
FAX:075-561-4900

何故、この滝の分類が寺社仏閣なんだ?

って思いますよね〜

私も思いました。

しかし、ここは先の日記にも書かれている様に、れっきとした神社なんです。

柵の左に社務所があり、入山料を支払うと更に奥に進めます。

ここで、熊野那智神宮の紋入りのお皿を購入(100円)し、手前の御神水を頂くと長寿祈願にもなるようです。

流石に滝壺までは進めませんが、手前の社辺りまでは行けます。

この前日は少し雨模様だったので、若干水の量も多かったと思います。

しぶきと言うか水蒸気的なものは、近くに行けば行く程、感じられます。

一時期?流行った?マイナスイオンで全快です。


高校の研修で一度、参拝しましたが、この時は全く興味が無かったので・・・・。

 この辺りは滝場が多いようですね。
流石は修験道の本場と言ったところでしょうか。

青岸渡寺・那智熊野大社・那智の滝・熊野本宮・・・・一泊覚悟なら、余裕で参拝出来ますよ。
って、まぁ大阪から行くにしても、日帰りは少し疲れます・・・・。
一泊二日以上での参拝をお薦め致します。

那智滝(なちのたき)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川にかかる滝。華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

那智山中には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっている。「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称であった。

しかし、現在、一般に那智滝として知られている滝はこれらのうち、一の滝を指している。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は現在でも飛瀧神社の御神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台からその姿を見ることが出来る。

滝の落口の岩盤に切れ目があり三筋に分かれて流れ落ちるため三筋の滝ともいい、また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる。

この滝を写した写真のキャプションとして「熊野那智大社と那智滝」などの様に題して、三重の塔と那智の滝を1枚のフレームに納めたものがある。明治期の神仏分離以前においては、その三重の塔が属する青岸渡寺と熊野那智大社は一体のものであったが、今日においては三重塔は青岸渡寺に属するため「青岸渡寺の三重塔と那智滝」と表記するのが正しい。

2004年7月1日、紀伊山地の霊場と参詣道の構成物件としてユネスコの世界文化遺産に登録された。

ここ、竹生島は難しい・・・。

観音霊場なのは観音堂の本尊:千手千眼観世音菩薩。
更に階段を登ると本堂が姿を現す。本堂の本尊は大弁才天。
そして、観音堂の横の舟回廊を進むと神社が現れる。

まさに、神仏融合の象徴的な寺院だろう。

大弁才天は秘仏で、脇に御前立ちの様に姿を現す、八臂弁財天(はっぴべんざいてん)。

大弁才天は見た事が無いですが、本尊も八臂弁財天なんでしょうかね?

江ノ島神社も確か八臂弁財天だった気がします。


この日記を書いてて気付いたのですが、私は日本三弁財天を全て参拝してました。

江ノ島神社は大学時代から夏には湘南へ行くのが恒例行事で、江ノ島には当然足を運んでましたし、この仕事についてからも、夏休みを頂き、江ノ島神社・江ノ島大師・鶴岡八幡・鎌倉五山巡りを致しました。

厳島神社は古くは小学校時の修学旅行。最近では、二年前に宮島でダライラマによる伝法灌頂の儀式(チベット密教僧になる許可の儀式)があり、参加しました。その折に厳島神社も参拝しております。


って事で、制覇してました・・・。

そんな事は気付きもしませんでしたが。

伽藍が多く、一番頂上付近にある三重塔です。

工事中でした・・・。

山?島?が寺院なので階段が多い。

残念ですが、足の不自由な方、車椅子の方は不可能でしょう。

運動不足も含め、まだ少し若い?私が行っても疲れました。


船に乗って行くので、ドライブついでに寄る場所には無いので、この寺院ばかりは「行くぞ!」と予定を立てるか、ツアーで行くのが良いかも。

個人で行かれるなら、付近に西国寺院が他に三ヶ寺あるので、日帰りでも梯子が可能だと思いますよ。
私が、そうでしたから。


では、この日記にて、このシリーズを終わります。

予定より長くなりスイマセン・・・・。

竹生島神社です。

この日は

『三社弁財天祭』の日でした。

なにやら、江ノ島・厳島神社の大神様の御神霊をお迎えし、竹生島神社御神霊と共に三社弁財天を祀る日の様です。

始めは良く判らなかったので、端で見てました・・・。
何の儀式だ?結婚式か?位に・・・。



境内から望む琵琶湖の景色は壮大で気もち良かったです。
丁度、舟が到着する時間でした。

国宝の唐門を通り、観音堂へ

平日でも、参拝の方は多いです。

ツアーで楽しくワイワイの方々。

個人で熱心に参拝の方々。

用途目的は多種にわたりますが、何であれ寺院参拝は良い事ですよね。

まぁ例え朱印帳集めが趣味でも・・・。

この日も、先達さんに引き連れられ参拝に来られた方々で大変賑わっておりました。

私も少し読経しようとしましたが、あまりにも参拝の方が多いので、邪魔になると思い、手を合わせるだけにしました。

この舟回廊を抜けると、竹生島神社に行きます。


この日は大きな祭り事をされてました。

何でも、この日は日本三弁財天の日で、この日に竹生島神社に参拝すれば、残りの【江ノ島】【宮島】全てに行くのと同じ位に値する日だった様です。

先の日記の書きましたが、船でした行く方法はありません。

たしか、三ヶ所から行く方法があったと思います。

私は、彦根城付近の港から船に乗り出発。

定期的に運行してるので、大丈夫ですが、一応行くなら出向時間を確認する方が良いでしょう。
私は行き当たりばったりでしたが・・・。

【*】この寺院での参拝での注意事項
帰りの船の便も確認しておきましょう!
制限時間があり、一時間毎に便が出るはずでした。だから、一時間以内に参拝して帰るのか、じっくりなら二時間にするかってね。
ツアーの方は直ぐに帰られるので一時間で帰ってましたね。

島の半分が寺院になっている感じです。

見ても判ります様に、階段だらけです。

全てを参拝しようものなら、一時間では帰れませんよ。

船着場で待機している年配の方も多かったですから。

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