志喜屋日記

HOME > 志喜屋日記:寺社仏閣

志喜屋日記のカテゴリーを選んでください。

寺社仏閣

総数181件 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19

 皆さん、こんにちは。

本当に毎年・毎月言ってますが、月日が過ぎるのは早いですね。

 もう、三月も終わり、四月に突入致します。
 桜の季節ですが、ご予定は御座いますか?
まぁ、そう言う私も花見の予定は無いんですが・・・。

 夜になると、まだまだ寒いので日中に花見をして帰るのが良いかも知れませんね。


 さて、仏像修復の続きです。

 段々と形が出来上がって参りました。

ボロボロだった仏像が、木地の状態で復活しようとしてます。

 下地を塗るので、寄木は色の統一をしなくて良いですが、本当にボロボロです。


 殆ど完成です。

後は、手の配置・五鈷杵と水瓶の作製です。

 台座は別に注文してるので、最終的には台座の上に座る様になります。

日が経つにつれ仕上がっていく姿を見ていると楽しくなりますね。

 今回の仕事で、京都の職人さんの輪も広がり、中には伝統工芸師さんも多数居ます。

 又、少しずつでしょうが、修理行程を日記にて紹介致します。

 今暫くお待ち下さい。

連続の続きを書きます。


 仏師の言う通り、彩色は本当に綺麗に落ちました。

 次の工程は、組み合わせて隙間を埋めたり、調整していく作業です。

 前も裏も其処も、隙間だらけ。

五鈷杵も無くなっている状態。

仏師さんに思った以上に手間の掛かる作業だと言われてしまいました・・・。

 しかし、流石は仏師さん。

器用に綺麗に木地の状態を復元してくれております。

 何やら見慣れない器具・工具を駆使し、黙々と修復に向かっております。

 皆様、お早う御座います。
って、日記を書いてる間にお昼になってしまいました。
お彼岸も「あっ」と言う間に終わりましたね。


今回は仏像の修復を載せたいと思います。
依頼は、弘法大師像です。
現状では、彩色もボロボロで、寄木もガタガタの状態でした。

写真で見ても判る様に、彩色も落ち、隙間も大きく、接地面もズレております。

 先ずは彩色を落とします。

現在、流通している仏像は、海外製の商品も多く、格安にて販売されております。

 その様な仏像は半分位が化学塗料等を使用しておりますので、いざ修復となると大変難しいんだと、京都の伝統工芸師の方が仰ってました。

 今回の仏像に関しては少なくても150年以上前のものらしく、勿論の事ですが日本仏師製です。

 作業自体は問題なく、彩色落としを始めて頂きました。

皆さん、こんにちは。

最近、日記のネタが無くて困ってます。

何処か、紹介して!と言う様な寺社仏閣等は御座いますか?
(って、遠いと行けませんが・・・)

 今回は写真整理をしていたら、書き忘れていた?あれ?書いたかも・・・。
まぁ、その辺は大目に見て下さい。

 『金閣寺』を紹介致します。

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。1994年(平成6年)に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。

この地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。1394年(応永元年)、義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行っていた。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体されるが、義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。

「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する(金箔を貼るのは二・三層のみ。ただし最上層のみとする異説もある)。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像、向かって左に法体の足利義満像を安置する(安置仏像を「阿弥陀如来」とする資料もある)。二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」で、岩屋観音像と四天王像を安置する。三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。屋根はこけら葺きで上には鳳凰が飾られている。

鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。林は寺の裏山で自殺を図った。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに保津峡で投身自殺。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。なお、屋上にあった鳳凰は火災以前に取り外されていたため焼失をまぬがれ、現存する。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。現存する金閣は、1955年(昭和30年)に旧建物の資料を基に再建されたものである。、1987年(昭和62年)には金箔を張り替える修復工事を終えた。

なお、最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であった。

8代将軍足利義政は祖父の義満が建てた舎利殿にならい、造営中の東山山荘に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。

銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて『京の三閣』と呼ばれる。

 って、長い日記になってスイマセン。

写真が無くて、一回分の日記しか書けませんでした。

 でも、凄く寒いですが、今の季節に行く金閣寺が一番綺麗なんじゃないでしょうか?
 運が良ければ、少し雪をかぶった金閣に遭遇出来るかも知れませんよ。

皆様、お早う御座います。
本日は午前中に時間が空いたので、日記を更新しようと思います。

昨日はお彼岸に向けての広告日でした。
お仏壇のご成約、その他の小物も凄く購入頂き、忙しい一日でした。
ぁ、忙しいのはアリガタイ事です。

 さて、高山寺編最終回です。

京都市内でも山手まで来ると、雰囲気が全く違います。

 東寺・西本願寺・東本願寺・清水寺・嵐山付近の人で賑わっているのとはイメージが180℃変わり、凄く静かです。

 参拝時も、出会わした参拝者より、僧侶の方が多かったと思います。

 神護寺もそうですが、自然に融合した雰囲気が凄く良いです。

 本来の姿なんだと思いました。

そもそも、高野山も神護寺も山中を中心に考え、伽藍を造る。
あぁ、真言宗の寺院だなぁと思いました。

東寺、智積院、付近は周りが栄え過ぎて、昔の面影は無くなってますもんね。

 って、私は智積院が大好きで、暇さえあれば参拝し、ボォ〜っとしてます。


 さて、次回は神護寺編を考えてますが、今週の火〜木曜日まで、愛媛県:南光坊・栄福寺等、香川県:善通寺付近に行って来ます。
 その日記にしても面白いかなぁ〜と。

 まぁ、そう言う訳で、今週の更新は早くても、金曜日になります。

皆様、お早う御座います。

 約束通り、日記が更新できました!

本日大阪は残念ながら雨です。
気温も下がって寒いです。

 私は花粉症でマスクをしてるんですが、眼鏡が曇ります。
曇らないマスクを購入したのですが、鼻部分に当るスポンジが時間の経過と共に痛くなります。

 仕方が無いので、曇るマスクで応対してます・・・・。


 さて、高山寺編の続きです。

 高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、また古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(みょうえ)である。明恵房高弁(1173−1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡は現在の和歌山県有田川町にあたる場所で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147−1226)のもとで仏門に入った。

明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。

明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められていると思われる。

高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

1966年、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。


長い文になりました・・・。

皆様、こんにちは。

広告の件が、昨日で落ち着いたので、今月の日記更新の不甲斐無さに本日は急いで日記を書きます。

 写真の整理をしておりましたら、ご紹介させて頂いておりませんでした寺院が数ヶ寺出て来ました。
・・・いや、もしかしたら紹介したかも・・・。

う〜ん、その時は優しく見守って下さい。

 私、打たれ弱いんで・・・・。

 褒められて育つタイプなんです!!!

さて、高山寺編を始めます!

ここは、京都市内になるのかなぁ〜?
あっ、京都市右京区だった。

 大阪から車で行くと、かなり遠いです。

京都駅を目印に考えると、全然場所も方向も違います。

 大体で言えば、嵐山の方面でしょうか。

近くに、嵐山高雄パークウェイがあった気がします。

元々、この辺り一体が一つの寺院でしたが、三ヶ寺に別れた様です。

ここ、高山寺は【日本最古の茶園】の土地の様で、石表が建っておりました。

 ここから、お茶は宇治の方へ移動していったのだろうか・・・?

はたまた静岡へ???

 相変わらずですが、高山寺の詳細は次回の日記に載せます。

今月中には後一回位は更新しなくては!
皆さんの期待に答えなければ!!!
って・・・えっ?期待してない???

 スンマソン。

皆さん、こんにちは。

今月は、全く日記の更新が出来てません。

今月は何だか異例の月です・・・・。

 仏壇買われる方の大半が直ぐに持って来てくれ。との事。

 仏壇のお持ち帰りは無理っす・・。

小さな箱型の仏壇なら何とかなりますが、下から置くタイプは電気の配線や、フックの位置調節等、仏壇屋の仕事があり、その仏壇の大きさに合わせた仏具を用意します。

 せめて、2〜3日は下さい。

そんなお客様が今月は四客ありました。

そして、本日追加で二件増えました。

一つは電話での仏壇購入&寺院紹介。配達は月曜日。開眼は火曜日って・・・。
 弊社は構いませんが、お寺さんにも都合があるので・・・・ねぇ?

そして次の件は、近所の墓地に来たら花立が壊れてる。見に来て。との事。
昼ご飯を中断し、現地へ。

 そんな感じで忙しいっす・・・。


 では、続きです。

私の学生時代は案内所・受付的な様でしたが、全く使ってる様子は御座いませんでした。

 其処に旧本堂の宮殿を移築させ、法事用に作り直した様です。

 永代供養・回忌法要・水子供養、等々の法事をする【地蔵堂】として生まれ変わりました。

凄く気に入って頂けました。

嬉しい事です。

その日は、住職や奥さんを始め家族全員と私と言うメンバーにて食事会。
 住職の同級生が営まれている店に行き、大宴会を致しました。
 ご馳走様でした。

そして、その後は同じく近くのスーパー銭湯に行き、庫裏にて宿泊。

 本当に仕事なのか、遊びなのか判らない・・・。

 次の日は集金させて頂き、以前に納品した札所の【さわり大黒】の現状確認に向かいました。

皆様、こんにちはぁ〜

凄く久し振りの気がします・・・。
って、久し振りなんですが。

凄く忙しい&またまた体調を崩して、休んでおりました。

まだまだ、全快では御座いませんが、マスクをして、フラフラと頑張っております。

 風邪、インフルエンザ等々が流行しております。皆様も、うがい・手洗い等を徹底し、温かいお風呂につかり、湯冷めしない様にして下さいね。

 って、注意を促している私が病気なんで全く説得力が無いですが・・・。

 さて、1月31日と2月1日の二日間、高知へ出張に行って参りました。

 寺院参拝が疎かになっておりますので、今回は、某寺院様への納品日記を書かせて頂きます。

昨年10月末辺りに、友人(副住職)から電話がありました。

 「昔の本堂の宮殿を使って、地蔵堂を造ったき、仏像を入れたいがよね。お地蔵さんを作ってくれんがかいね?どんなんが、あるかいね?全く判らんき、任せるから、サンプルか資料あったら見せて。」

 と、言う事で製作が始りました。

納期は一応、4ヶ月間を頂きましたが、個人的には2月3日の星供(節分・星祭)に間に合わせたかった。

 高知はまだまだ檀家制度と言うか、お寺と地域・檀家・信者さんとが密接な繋がりを持っている。

 一寺院が星供をするって言ったら、かなりの人が集まる。

 出来れば、その時にお披露目したい!と思ってました。

四国は意外と雪が降る。そして、直ぐに高速道路が閉鎖される。

知らなかったが、出張の3日前位にも閉鎖があった様だ。危ない・・・。

 私が行った日は天気も良く、雪の心配など全く無く、予定通りの日程で納品が出来ました。

 住職様も凄く楽しみに待って居てくれていたらしく、訪問時には出掛けられてたのですが、友人が電話すると、直ぐに戻るから、宮殿に納めんと待ってて!との事でした。

 そして、住職の確認を済ませ、宮殿に納めさせて頂きました。

 納品後の写真は次回の日記に書きます。

 それでは又、暫く?お待ち下さい。

 皆さん、こんにちは。

本日の大阪は天気が良いとは言えませんが、少し暖かいです。
このまま暖かくなれば良いんですが、そんな訳にはいかないですよねぇ。

 又、寒くなるんですよね。

皆様も、お体には十分に気を付けて下さいね。
と、言いつつ、年末年始に体調を崩したのは私なんですが・・・・。

さて、善通寺編、最終回です。

と言っても、前回まで内容を全て書いてしまったので、特に無いんですが。

善通寺は四国霊場や真言十八本山霊場の札所としても有名です。

 香川の札所は少ないのと比較的密集してますので、自動車での巡礼なら、2〜3日で周れるのではないでしょうか?

 又、近くには琴平の金毘羅宮がありますので、観光・参拝には事欠かない場所だと思います。

香川は良いですよね。

讃岐うどん、四国霊場・金毘羅さん、その他多数の私が好きな物・場所が満載です。

 以前、金毘羅参りに出掛けましたが、予想以上の階段とそれを凌駕する体力の無さ。

 途中・途中に設けられた休憩所で都度休憩した覚えが・・・。

 さて、今回で善通寺は終わりです。

次回は・・・・未だ予定が御座いません!

と、言うよりもストックが無くなりました。

 さて、何処かに参拝に行かないと、ダメだぁ〜

 何かリクエストは御座いますか?

総数181件 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19

ページの先頭へ